稲城市ダンススポーツ連盟 連盟史(区分は4月から翌年3月)

1986

 

12月 

 連盟結成発起人会開催、連盟発足を決定

     発起人  居樹、大場、原田、倉澤、森坂

1987

 

4月

 

 

 

 

12月 

連盟結成設立総会開催

 加盟サークル  稲城ソシアルダンスクラブ

         サークルむつみ

         稲城ダンスクラブ 

         稲城社交ダンスグループ

設立1周年記念チャリティーダンスパーティー開催

        (この年より毎年開催されております)

1988

11月 

新規加盟サークル ダンスサークル・パンプキン

1989

 

10月

3月

第1回稲城市スポーツダンス大会開催(クローズド)

新規加盟サークル 稲城パ・ド・ドゥ

脱会       稲城ダンスクラブ

1990

4月

3月

連盟会長に居樹保朗氏、事務局長に大場氏就任

新規加盟サークル それいゆ

1991

5月

6月

稲城市体育協会に本加盟

親睦旅行実施 石和温泉郷

1992 

6月

11月

親睦旅行実施 河口湖

第8回関東社会人スポーツダンス大会参加

 フォーメーション戦に於いて、稲城チーム優勝 

1993

2月

 

稲城市体育協会25周年記念式典 参加

新規加盟サークル 平尾ソシアル

名称変更 それいゆ→メープル稲城

名称変更 稲城社交ダンスグループ→稲城アイリス

1994

6月

3月

親睦旅行実施 河口湖

新規加盟サークル ベルズ稲城 

1995

8月 

2月

東京湾屋台船遊覧親睦会実施

第1回東京多摩南ブロックスポーツダンス大会

東京都アマチュアダンス教会20周年記念パーティー参加

1996 

10月

12月

3月

連盟設立10周年記念親睦旅行実施

連盟設立10周年記念 パーティー開催

新規加盟サークル ひまわり

1997 

9月 

3月

都民生涯スポーツ大会参加 参加30団体中総合25位

新規加盟サークル サークル・リリー

1998 

6月

9月

3月

都民体育大会・春季大会参加 参加30団体中総合27位 

都民生涯スポーツ大会参加 参加28団体中総合20位

脱会       パンプキン

1999 

6月

9月 

都民体育大会・春季大会参加 参加31団体中総合29位 

都民生涯スポーツ大会参加 参加28団体中総合6位

2000 

9月 

都民生涯スポーツ大会参加 参加31団体中総合18位 

2001 

9月 

1月

都民生涯スポーツ大会参加 参加26団体中総合17位 

連盟設立15周年記念 パーティー開催

2002

5月

 

6月 

9月

2月

3月

当連盟会長居樹保朗氏 東京都ダンススポーツ連盟

理事長に就任 

居樹保朗会長TDSF理事長就任祝賀パーティー開催

都民生涯スポーツ大会参加 参加27団体中総合16位

多摩ダンススポーツ振興会親睦旅行に便乗 鬼怒川温泉

第1回多摩南ブロックダンスパーティー

新規加盟サークル アスキボー

2003 

6月 

7月

 

9月

2月

都民体育大会・春季大会参加 参加30団体中総合14位 

第1回サマーダンスパーティー開催

競技会支援システムパソコン研修会開催

都民生涯スポーツ大会参加 参加28団体中総合7位

TDSF親睦研修旅行参加 伊豆大島

第1回新春ダンス交流パーティー開催

2004 

9月 

 

 

 

1月

都民生涯スポーツ大会参加 参加27団体中総合9位

連盟名称変更 

稲城市アマチュアダンス連盟  ↓↓↓↓↓↓↓

            稲城市ダンススポーツ連盟

多摩ダンススポーツ振興会親睦旅行に便乗 河口湖

2005 

6月

 

 

 

9月

 

11月

 

2月

名称変更 稲城ソシアルダンスクラブ→稲城ダンススポーツクラブ

名称変更 平尾ソシアル→平尾ダンススポーツクラブ

東京都ダンススポーツ連盟研修旅行参加 新潟月岡

都民生涯スポーツ大会参加 参加27団体中総合2位

連盟親睦旅行 フォーラム246

稲城市市民文化祭参加「ダンス・ダンス・ダンス」

サークルむつみの姉妹サークル、花水木認定

多摩ダンススポーツ振興会親睦旅行に便乗 那須

2006 

4月 

 

9月

2月

3月

東京都ダンススポーツ連盟創立30周年記念祝賀パーティー         参加 帝国ホテル

都民生涯スポーツ大会参加 参加29団体中総合2位

多摩ダンススポーツ振興会親睦旅行に便乗 富浦

稲城市ダンススポーツ連盟20周年記念祝賀パーティー開催

京王プラザホテル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連盟史年表は、稲城市ダンススポーツ連盟創立20周年記念冊子『あゆみ』をもとに作成したもので、ほんのごく一部を載せました。

詳しく知りたい方は連盟事務局にお問い合わせ下さい。

2007年以降は後程掲載します。 

 

 

 

                                 管理人

 

居樹保朗インタビュー前編お見逃しの方はこちらからどうぞ!

ダンスで日々の生活に活力を!

 

このたび、稲城市ダンススポーツ(DS)連盟のホームページを立ち上げました。稲城市における社交ダンスとダンススポーツの活動について広く知っていただき、ひとりでも多くの方がダンスの楽しさと奥深さを実感していただけたらと思います。そこで、稲城市DS連盟の創立者で会長でもあり、また東京都ダンススポーツ連盟の会長でもある居樹保朗(すえき・やすお)さんに稲城市DS連盟の発足時の経緯、現在の活動、今後の取り組み、ダンスの面白さと楽しむための方法などについて聞きました。(聞き手は、稲城市DS連盟会員の木村、阿部孝)

 

27年前、遊びのダンスからもう少し高いレベルを目指す

―― 本日はお忙しい中、時間をとっていただきありがとうございます。(木村、阿部)

居樹 どうぞ好きなように質問をしてください。

―― それでは早速ですが、稲城市DS連盟の発足時の状況はどうでしたか?(阿部)

居樹 あと2、3年で30周年を迎えるので、27年ほど前に発足しました。東京都の連盟と10年違いで、東京都の連盟はほぼ同時期に40周年です。今の連盟を作ろうとしたのは約30年前です。

―― 作ろうとしたのが30年前で、実際にできたのは27年前ということですか?(木村)

居樹 1、2年は、反対する人もいてなかなかまとまらなかったが、福島さんが積極的に作ろうと動いてくれて、ようやくできたのが27年前。最初に矢野口の第2文化センターでダンスの活動がいろいろ始まり、私がダンスをやっているということで、講師を頼まれたのがきっかけです。そこでの公民館活動後にも他でもやろうということになり、いくつかサークルができ、他にも2、3のサークルがありました。

―― そのひとつがかつて稲城ソシアルといった稲城DSCですか?(木村) 

居樹 いいえ、ソシアルはそんなに古くはないんです。今のパドドゥの金曜会と稲城アイリスの火曜会です。そこからいろいろなサークルが分立していったみたい。

―― 連盟発足時、いろいろ反対する人もいたのですね。(木村)

居樹 そのころ連盟というものがどういうものかよくわからなかったからですね。私自身よくわからなかったもの。でも、まとまって行こう、何かやろうよ、仲良しグループを作ろうよといった感じでした。

 ところで、「社交ダンスを楽しむ会」を知っている? 文化祭のとき中央文化センターの舞台で発表会があったでしょう。

―― それに出ました。必死に練習しました。(阿部)

居樹 あれが始めで、3年か4年つながった。連盟を作ってあれに出ようと練習したわけ。

―― それが連盟の元になるわけですか?(木村)

居樹 連盟を作った後かも知れないね。

―― それが連盟の最初のイベントという感じだったのですね。(木村)

居樹 そうです。中央文化センターのホールの観客席は普通ガラガラなのにダンスのときは満席で、あの時は我々も燃え、必死に踊りました。はでな衣装で歩いていたから周りは何だろうという感じで見ていました。

 その少し後から今の競技会に出始めたのです。それで余裕がなくなって文化祭の方には出なくなっちゃった。そのころは競技会に行くと、我々の仲間がたいてい決勝に残っていました。周りのレベルが今ほど高くなかったからね。そのころは1級~6級で、その前は初級、中級、上級でした。ただ、3級が今のD級くらいだったのではないですか。

―― 競技会が始まったのはいつごろなのですか。(木村)

居樹 そうですねー、プロが主催する競技会は戦後まもなくですが、アマチュアが主催する競技会は、おそらく昭和40年~後半ころからではないですか。当時、狛江の山口(繁雄)会長が提唱して今の日本ダンススポーツ連盟の組織を作ったわけです。アマチュアのアマチュアによるアマチュアのための競技会ができたわけです。それまではプロ主催で、プロのいいなりでした。

―― 「社交ダンスを楽しむ会」の仲間が競技に出場するようになって、競技志向となったわけですね。(木村)

居樹 そうです。20組くらいでバス2台をチャーターして水戸の競技会に行ったこともあります。忘れ物をする人が必ずいて、蝶ネクタイなどを近くのデパートに買いに行ったりしました。それでも仲間の半数は決勝までいきました。踊れるようになると踊りたくてしょうがないという時期だったし、成績が良かったのでみんなも楽しかったのではないか。

 そのころダンスをする人は、プロの教室に行くかあとはパーティーだけ、サークルでみんなでということは少なかった。僕は、ユースホステルのサークルに入ったのです。100人位いたのですが、分裂騒ぎがあって、その残った中で僕が一番年下だったので、教えてみろよと言われた。それがなかったら、そんなにのめり込んでいなかったかもね。

 職場は、あまり残業のないところを選び、業後はダンスといった状況でした。職場ですぐ、キャバレー通いしていると噂になりましたが、当時はダンスなんてキャバレーという認識だったのです(笑)。

―― 知る人ぞ知るという世界ですからねー。(木村)

居樹 そのころちょうどNHK杯の放映があり、オープニングに僕が映っていたので職場の人たちもすごいと驚いていました。また、チャリティパーティーで寄付をしたりして、周りの人も徐々にダンスを認識するようになってきたのです。

体育館を使用するのも当初は木のパネルを敷かなくてはダメといわれるなど厳しかったのですが、最近では木の床そのままで使わせてもらっています。いま東京インターや三笠宮杯で使用している東京体育館や都民大会の駒沢体育館も、当初はダンスで使わしてもらうことすら大変だったのです。先達とともに市場調査でダンスの観客数が多いことを説明して説得したり、たまたま駒沢体育館の責任者が稲城の人で好意的に対応してくれたりして、いまでは体育館の方から使ってほしいといってくるくらいです。20年30年前と比べて今は雲泥の差で世間が変わりましたね。

今泉さん、山田さんや、亡くなられた倉持さん望月さん、そして稲城の仲間たちなどいろいろな人の影響や協力があって、アマチュアダンスの2大大会の東京インターと三笠宮杯を東京で開催することができるようになりました。

―― 連盟発足時の経緯、状況をお聞きしましたが、稲城の連盟の特徴などについてはいかがですが?(阿部)

居樹 稲城の連盟はできたころからすごくまとまりがよかったのですよ。100人たらずの会員で、当初は4団体くらいでしたが、結束力が強かったのです。東京都の連盟の理事長になるときも、かなり迷いましたが、先ほど話したいろいろな人の協力があり、また会員から、かけた梯子は絶対外さないといった支えもあり決めることができました。東京都のいわばはずれの稲城出身で年若い私が東京都の連盟のトップになったのも、それらの人たちのおかげです。以前は稲城(いなぎ)をいなしろ、居樹(すえき)をいきさんと言われたこともありましたが、4、5年たったら間違えた方が恥ずかしい感じになりました。ただ、先月役員紹介のとき間違えられ、役員がもうあわてちゃって—--(笑)。

多摩振興会の役員などであっという間の30年でしたが、そのうちの15年はJDSF、東京都の連盟にかかわりました。稲城の人たちとは歓送迎会くらいしかおつき合いないんですけど(笑)。

 

ダンスを始めて約40年、きっかけは運動部の資金集め

恥はいっぱいかきました

―― ところで、ダンスを始めてどのくらいですか?(阿部)

居樹 40年位です。そのうちの始めの10年以上はチャラチャラした遊びのダンスでしたね。その後、JDSFの競技会が始まり、赤羽の大会に出たらいきなり優勝して、それから面白いから出ようよと周りの人たちを誘って、だんだん競技志向となってきました。勝てば楽しいし、負ければ負けたでくやしいから頑張ろうという気持ちでした。

―― 勝ったり負けたり、パチンコと同じですね(笑)。(木村)

―― 始めたきっかけは何だったのですか?(阿部)

居樹 学生時代クレー射撃部に入っていまして、年末に資金集めのためダンスパーティーがあって、無理にパーティー券を買わされたのです。それがきっかけです。やったことないんだから踊れないのはあったりまえだよね。二度とダンスなんかやるものかと思いました。自分は惨めな思いでじっと座っていたけれど、仲間のひとりは結構上手に女性とジルバを踊っていて、頭にきちゃってね。そして二年のころダンス教室で少し個人レッスンを受けました。その後、先ほど話したユースホステルのサークルで仲間に誘われて費用の安い団体レッスンを受けるようになりました。そのころ学生でしたが、そこで社会人の仲間たちに飲みに連れて行ってもらったりして、励まされたのです。

―― 会長も初心者のときがあったんですね。(木村)

居樹 そうなんです。僕は、学生時代から野球やったり、サッカーかじったり、社会人になってからテニスやスキーをやったりしていたので、ダンスなんか簡単と思っていたのですが、ダンスだけはできなかったね。

―― だから逆に燃えたのかもしれませんね。(木村)

居樹 そう、簡単だったらやめていたかもしれない。

―― 他の趣味もそうでしょうけれど、ダンスは男女が組むので踊れないと惨めな思いをして、上手だと優越感をもつ傾向が強いようで。(阿部)

居樹 僕は音感がない方だからね。パーティーで、ある女性とジルバを踊ったとき、3回目くらいだったかなー、「音とれてないよ」と言われ、頭にきました。そんな言い方ないよね。

―― そこで言わなくてもいいことなのに(笑)。ただ音をとれていないときは、たしかに何か気持ち悪いという感じがしますね。その女性も何となく違和感があったのでしょうか。(阿部)

居樹 当時18、19で、初心者がなんとなくこんな感じで(手振り)踊っていたのでしょう。恥はいっぱいかきました。

―― みんなそうですよねー。(木村、阿部)

居樹 そのユースホステルのサークルに入ってなかったら、恥かいてやめていました。そこの連中が「居樹さん大丈夫だよ」などと言って引っ張っていってくれたので、僕ももう一度やろうという気になったのです。

全編終了

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